Report

— 過去に撮影した作品の取材レポート。撮影時の舞台裏を、約2週間間隔でほのぼの更新。

レポート135
09 Jan 2026更新

2015年1月10日 富山


 実にどうでもいいことですが、私の趣味(習性?)のひとつとして「ストリートビューで自分をみつける」というのがあります。これが結構難しく、ここならいただろうとか探ってみるもなかなか見つからないものだったりします。というかほぼ見つからない。目の前で撮影カーが通り過ぎた経験はなく、まあこれがあるならばいくらか検討もつきそうですが、しかしどちらかというと「知らぬ間に写っていた」という方が自分としては嬉しいものがあります。
 この「知らぬ間に写っていた」というのが自分としては結構撮影に対する考え方にも通じるものがあり、思い出を残そうとするならば出来る限り何も意識しないでシャッターを切った方がいい、というのに近いところがあります。山でも撮影前から地形だったり、季節だったりを考えてから、撮影時は構図やらライティングやら何やらを意識して意識して意識して注意深く作品を作っていくわけですが、そうすればそうするほど時代性から離れていき、作品であればあるほど何年経っても通用するもの、となってしまいます。つまり表現しているものが時代とか時間でなく、違うもの、ってことですね。逆に何も考えないで思いがけずたまたま撮っていた、みたいなものは非常に時代性を帯び、そのときの思い出や懐かしいと思わせるものが写っていたりします。それを作品じゃない、などと、までは言わないですが(そういうのを作品としている人もいると思いますから)、とにかくその方が記憶やその時々の時代が呼び覚まされるわけです。ポスターなんかだともっとわかりやすいか、天才デザイナーが作ったようなものだと50年経っても通用してしまうものだったりしますが、広告チラシとかどうでもよさそうなものの方がその時々の時代が見えてくる、みたいなもんでしょうか。
 何が言いたいかといいますと、要はちょっと前にようやく見つけたわけです、自分を。別に特段珍しいものでもなく自分は今現在ここにも存在しているわけですが、どうにも戻れない過去に存在していた自分を見ると、今ここにもいるはずなのに、なぜかより存在を感じるのです。「いる」よりも「いた」という方が信用できるんでしょうか?時間というものは不思議なもので、動き続けているあやふやな現在よりも確定して動きようのない過去の方が存在感はあるというのはうすうす感じますが、なぜそう思うかはもう少しゆっくり慎重に紐解いていかないと確たる答えはわかりません。しかしとりあえず言えるのは、そこにやたら感傷的になれる人間となれない人間がいて、私はそういうのに滅法弱い(感傷的側)んであります。なのでストビューは今現在の画像で調べるという使い方よりも、もっぱら過去に生きてしまうんです。。。
 「やたら記憶がいい」とはよく人に言われます。久しぶりに会った人との会話で、前会ったのって何年何月何日だったよね、とか。そういやこのレポートもそういう類のものかもしれない。まあそれはさておき毎日どうにかして過去に戻る方法を思索しているのだが(そんなことしてるのか!)、今のところストビューで思い出に浸るのが精一杯。ストビューも2007と2008はカメラの高さの関係で2009からなので浅いなぁと言われたらそれまでですが。でも本当に戻れても何もわからないんでしょうね、ただその現在に生きているだけだから。戻れないとわかっているから、感傷的になるんでしょう。あ、意識を保ちつつ戻るのはなし。そうしたら違う選択をしてしまうかもしれないし、してしまったら元の選択が愛おしくなって、結局また感傷的になるだけなので。
 まあともかく、自分は撮影においてそういった時代性を極力削いで、作品の中に「美しさ」というものだけを抽出できるよう常に目指しているのですが、そんな人間が実はやたら過去に触れたがっているというのも変なところがあるものです。そして作品を作る以外はスマホだろうがあまりシャッターを切らないので過去に触れられる素材に乏しく、ストビューに頼るというしょうもない状態。でも、撮影対象が山っていう時点であまり形も変わらないからそもそも時代性が低いですねって、やかましい!最近は雪も少ないんだよ!
 さて、今回の写真ですが、千葉は房総の富山です。「房総の低山」というだけで、さては書くことが少なそうなので冒頭が長かったんだなと思った方、正解です。普段登っている山からすると山というよりかはもはやウォーキングの部類でありますが、千葉県出身の私としましては冬場は時々暖かい房総へと散歩する習性がありました。ここ最近は久しく足を運んでいないのですが、もしかしたら都民になってだいぶ地に足がついてきたのかもしれない。。。!でもふと思い返すと、ノーストレスのウォーキング登山にでも出かけたいなぁと思います。それくらい、のんびりできるところです(千葉県民、元千葉県民限定)。
 撮影日は2015年1月10日。年末にも雪山、この直後にも雪山に行っておりますので、ホントちょうど合間の気分転換として最高のほのぼのハイクです。以前は毎年のようにこの時期に水仙が咲くので出かけていたのですが、このときは水仙ももちろんありますが見晴らしの山を目当てに登りに行きました。山なのか丘なのかは謎ですが。
 JR岩井駅のバスに時間を合わせて動きましたので、さほど早くない朝に自宅を出発、ガラガラの下り総武線で房総へと向かいました。特急を利用したのでこれまた快適、っていうか土曜なのにこの空き具合で大丈夫なのか房総。そんなわけで大きな窓からキラキラと輝く海を眺めながら岩井駅に到着しましたのは大体10時頃。普段山ばかりを見ていると海を眺めるのは気分転換にもなってすごく楽しい気持ちになります。写真を撮らなきゃ、って思わないからかな。ちなみにどうでもいいことですが、私の中学1年生の時の陸上部夏合宿がこの岩井周辺で、岩井の海岸、砂浜でやっておりました。ですが駅に降りてあまり記憶には残っていない模様。もうちょっと「うわ〜懐かしい」みたいなものがあるかと思っていたのですが、さすがに出てこない。そんな風に周囲を物色しているとまず向かう伊予ヶ岳方面へ行くバスが駅にやってきました。
 のどかな道をバスに揺られて15分、登山口の天神郷で下車します。当然のことながら、バスも土曜だというのに私だけでございました。そうしてまずは伊予ヶ岳へ。標高は336mなので瞬殺ではありますが、房総ウォーキングだと思っているので300m弱は登ると思うと「案外登るなぁ」とちょっと身構えてしまったり。標高差270mってそれだけ聞くといつもなら余裕ですが、今日は登ることなどほとんどないだろうという意識で来ていますので、ちょっと大変そうだなと思ってしまいました。まあしかし伊予ヶ岳に至っては山頂直下が崖になっていて急な岩場を登るので、登りがいがあるっちゃある。それなりに一生懸命登ってる感は案外するわけです。
 山頂付近に出るとなかなかの高度感、流石標高4100mほど足りてないが房総のマッターホルンである。おそらくマッターホルン山頂もこんな感じなんだろうことは容易に想像できるほどの高度感だ。いやでもこの山頂だけ塔のように突き出しているので、本当にそこそこの高度感はありますよ。落ちたら死ねるし。しかし何よりも驚いたのはその山頂付近のそう広くないところにテーブルがあり、ランチを楽しんでいるパーティーがいたことである。確かにテーブルはあるが、、、ここでパーティ?とも思いましたが、自分を含めてもさほど登山者などいないのでまあ問題ないのかも。向こうからしたら「この山にわざわざそんな登り来る?」くらいの感じだったのかもしれない。もちろん鎖で囲まれている危ない突端の山頂でやっているわけではないので全く問題ないが、先着1パーティの特権というやつだろう。
 山頂は前述の通り突端は鎖で囲まれており、タイタニック号の先端のようになっている。この山というかこの岩だけ平地からズンと突き上げているので見晴らしは最高。目線の先には双耳峰の富山が見え、その先に東京湾、そして富士山が、、、雲かかってた。。。空気は非常に澄んで遠くまで見渡せる冬らしい光景なのだが、日差しを浴びて体感気温は生暖かい。さすが房総であります。山頂は狭いのでであんまりゆっくりすると他に方にも迷惑なので長居はできないが、この見晴らしを楽しみながらゆっくりしたいものであります。山頂から北側に少し道がついており、もうひとつのちょっとしたピークに行くと突き出た山頂が横から眺められる、が山頂ほどの高度感は得られなかった。やっぱりとにかく冬だというのにこの長閑さが最高ですね。寒さゼロ、吹雪ゼロ、なのに展望良好。やっぱ千葉だわ。
 下山してからは富山まではのんびり里道を歩いていく。どちらかというと山よりもこの里道歩きがメインでもあります。以前はこの時期によく鋸山界隈に足を運んでいたわけですが、楽しかったのは下ってからの里道歩き。長閑なのはもちろん、何というか南房総らしい、何があるかわからない、そしてやっぱり何もない、でもどことなく里の雰囲気があるディープゾーンといいますか、予想できない楽しさがあったりする。歩き始めてから少し行くと登った西側から伊予ヶ岳を眺められるところがあり、標高が低いには違いないがなかなかの風貌を楽しめた。う〜む山頂の岩はあんな風だったのか、小さいが結構カッコいいなと思い、この図をいつもの山岳写真に当てはめて「夕陽に染まる伊予ヶ岳」などというものを撮ってみたらいいんではないかと一瞬思ってもみたが、、、流石に撮らないんだろうな、これが!
 さて里道歩き。のんびりした雰囲気の何もない道を富山に向かって歩いていきますが、結果的に富山まで誰一人として人間を見なかった。里ではあるが人影がない謎のエリアである。いや流石に住んでいる人に失礼だが、とにかく静かなのである。そういう意味では何だかセットの中を歩いているようでもあり、浦安にあるものよりもよっぽどテーマパークのような気もするのだが、もう少し商売っ気があった方がいいのだろうか。道はやや上り坂になり、みかんだかなんだか柑橘類を栽培しているところを歩き続けるといつの間にかに富山に着いた。伊予ヶ岳に比べると、全く山に登ったと思わない山だったが、山じゃないのかもしれない。大きさだろうか、何だろうか。秩父の蓑山は山頂部も思いっきり公園化されているのに山らしさを感じたのと対照的で、富山はむしろ公園らしさを感じました。まあ蓑山の方が標高で230mくらい高いから、やっぱり大きさかな。

想い出の渚

 富山北峰は何だかんだでそこそこ樹林に囲まれているが、見晴らしが楽しめる展望台がある。これ、このくらいの山だったら思い切って周囲の樹林を削ってガッツリ固めて展望台としてしまっても良いような気がするんですが、ダメなんだろうか(今は展望台が建て替えられて、かつ少し手入れもしているようです)。山頂部はそこそこ平たくて小広いのでそれこそ蓑山みたいだったらむしろ山らしさを感じられたような気がする。しかしおそらくこのほっとかれ具合が南房総なのだろう。展望台に上がると先ほどの伊予ヶ岳では雲がかかってしまっていた富士山がしっかりと姿を現し、東京湾越しにドスンと大きく構える姿はなかなか見応えがあった。海越しに眺める富士山というのはいつも思うがなかなか乙なもので、いいものだ。これはやっぱり空気の澄んだ冬に来るべきだろう。もし初夏にくっきりと富士山が眺められたらそれはそれで気持ちよさそうだが、おそらく打率は低い。観音堂のある南峰によりつつ、東側とは違って山らしい山道を下って里に下りたが、おそらくあまりに瞬殺だっただけにほぼ記憶にない。
 再び里道に出て少し歩くと伏姫籠穴に着く。土曜日だというのにやはり誰もおらずもちろん人影もない。キョンすらいない。こういう今どき需要がなさそうな感じの施設が房総らしく、むしろ好ましい。時流の株式金融主義一辺倒の世の中、何かあるとすぐに金儲け、そうは見えない感じのところでも実は金儲け、のような感じが一切なく、潔い。もちろん無料だ。南総里見八犬伝の聖地巡礼ポイントだとは思うが、そもそも今どき読んでるのだろうか。。。読んでないから誰もいないのかもしれない。ちなみに私はずっと滝沢馬琴で習ってきた気がするのだが、今は曲亭馬琴らしく、滝沢馬琴は本名とペンネームが混ざった言い方なので正しくないらしい。ともあれ馬琴は日本初の専業作家らしく、同じくフリーランスの身としては頭の上がらない神様みたいなものですから、ご拝謁しないわけにはいかない。といいながら、どうせいいところの生まれなんだろう!ちなみに伏姫籠穴の感想であるが、まあ、、、そんな感じです。
 そこから少し歩くと中学校があり、道端にちらほらと水仙を見るようになった。やはりこの時期の房総と言えば水仙である。これを見ると一月というのがやっぱり「新春」なんだな、などと思うのですが、私だけでしょうか。とりあえず花を見ると、もう冬じゃないんだな、なんて感じがします。気付けば梅が咲いてきますし、その頃には日も少しずつ長くなってますしね。そうして喉が乾いたからどこかに自販機がないかなぁと物色しながら岩井駅へと向かいましたがやはり駅近くまで来ないと自販機はありませんでした。ということで午後3時半ごろに岩井駅へと戻ってきたのでした。
 帰りの電車は午後4時半、時間があるので少しでも思い出が鮮明になるかと夕日の沈む岩井海岸へと行ってみました。駅にいるとなんとなく海岸はすぐのような気がしたのですが、これが思いのほか結構距離があった。結果1kmほどあるらしいが、つまりゆっくり歩くと約15分かかるわけで、走ればそりゃ近いけど走るわけもなく。そこそこ時間がかかって辿り着いた海岸はちょうど夕日が綺麗な時間帯で、しっとりとした風景が広がっていた。キラキラと輝く水面、そしてやはり見渡しても誰もいない海岸。ここで砂浜ダッシュを何本もやったはずであるが、やはり頭の中の思い出と合致することはなかった。まあそれでもここで走っていたのは事実だし、思い出に触れられた感触は全くないがほんのり赤い夕方の海岸が綺麗なだけで十分満足だった。こうしてまたひとつ今回のことが、自分の思い出、そして過去の自分となるんだろう。そんなことを考えながら静かに引いては返す波音を聞きつつ、しばらく海岸線をじっと眺めていた。

 そんな美しい海岸線を
 堪能して
 時計を見ると

 針は午後4時15分を過ぎていた

 結局


 駅まで走った

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