Report

— 過去に発表した作品の取材レポート。撮影時の舞台裏を、約2週間間隔でほのぼの更新。

REPORT - 63
11 Mar 2020更新

雑誌「自治体ソリューション」・2018年3月号「宝登山」


 うーん、前回のレポートから2週間、右も左も新型コロナになってきてしまいましたね。レポートではのんびりとしたことを書きたいところですし、読んでくださっている方もここでもコロナの話かいって思いそうですからあまり書きたくないんですけど、この先どうなっていくんでしょうね。まだ目の前で何か極端に大きな変化が現れている、というケースは目立ってないから焦りは禁物ですが、先が見えないというのは皆様本当にお疲れのところと思います。私がネットでしっかりと情報収集したところによると、やはり最悪のケースを考えるならば今はまだ混乱が起きていないうちに「トゲ付きの肩パット」は用意しておいたほうがいいようです。そうしてやはり世界の崩壊が見え始めたら髪型はモヒカンにする、というのが今できる心の準備でしょうか。免許持ってないからバギーの運転はできないのが痛いところですが、まあそこは馬でカバーすればいいか。っていうか無免許でもいいわけだ、そんな世界。お金はケツを拭く紙にもなりゃしないらしいですからまあ持っていても必要ないらしいんですけど、紙である以上別におしり拭いたって鼻かんだっていいわけですから、まあそこは使い方が考えつかないあいつらがバカなんでしょう。バカっぽい顔してるし。って言ったら、ものの言い回しってものを知らんのかってあいつらに言われたりして。
 もしも不測の事態が訪れたとき、アウトドアや登山に慣れ親しんだ人は対応力がある、なんて思っている人がいるかもしれませんがおそらく大きな勘違いでしょう。いくらか最初のうちは対応力があっても、結局は所詮現代のグローバリゼーションの影響下で生きており、そういったアウトドアスキルも多くは何らかのアイテム、物質に頼っていて裸一貫でいつまでも生きていける訳ではありません。高度なインフラによって成り立っている豊かな生活は決して人間の進化ではないというのを、崩れたときに痛感するかと思います。これこれは自力でできる、これがなくてもこんなこともできる、なんていうのも、あくまでもそういった高度な社会があるという前提で考えているに過ぎず、脆いものです。ですからとにかく難しいことを考えず、焦らずできる限りのこと、つまり「トゲ付きの肩パット」を用意しておく、これが大事なのかと思うわけであります。これでもだんだんと新型コロナの被害が拡大してきたら、トイレットペーパーみたいにトゲ肩パットの取り合いとかになるな。。。ゴクリ。まあでも実際アメリカでは銃や弾丸がバカ売れしているようなので、あながち間違いじゃなかったりして。
 さて、よくわからない話は置いといて、今回の写真ですが、「自治体ソリューション」という雑誌で連載させていただいておりました「宝登山」の写真です。レポートではここ数回雪山が続きましたので、季節柄ちょっとほんわかしたものをチョイスしてみました。撮影は2017年3月11日、私としては珍しく土曜日のお出かけでした。記憶ではこの写真の梅林が目当てというよりも、お恥ずかしながら実は急遽必要になったロープウェイの写真が必要で行かざるを得なくて行ったような記憶がございます。ロープウェイの山登りで近場で手軽に撮れる場所ないかな〜ということで、宝登山へ。何度か登っている山ではありますが実はここのロープウェイには乗ったことがなくて、ついでにちょうどいいかと思って足を運びました。
 一応大事な用件がロープウェイなものですから早朝から慌てて出かけることもなく、余裕かましてぼちぼちの時間に自宅を出まして、9時20分ごろに長瀞駅に到着致しました。ちょうど宝登山神社までのバスもありましたが、ここでも余裕をかまして歩いて駅から乗り場まで。と言っても10〜15分くらいですから、せっかくなので歩くのがちょうどよかったりします。
 ここでは15分程度だからまあどちらでも特に変わりがないとは思いますが、この「歩く」というのは私は結構大事にしていることで、ちゃんと自分のスケールで歩くことによって周りの本当のスケールも見えてくると思うところがあります。競歩ではありません、普通に歩いてます。何でもかんでも徒歩、となると今度は理解できる範囲が狭くなりすぎるのでほどほどに、で十分かと思いますが、山もそうですよね。足で登るから大きさがわかる。車で山頂に行ける場所は見晴らしという結果は同じですが、その山も持っている大きさや麓からの距離感とか、その他諸々を体感しづらかったりします。文明が発達した分様々な行動の「結果」を得やすくはなりましたが、それが個々人にとって対象を本質的に理解できているかどうかは別のところにあるかと思います。決して原理主義というのでもなく、手軽に得られる結果では本質的理解ができないというわけではないので、結局は個々人の考察力によるのですが、まあ難しいこと考えずに物理的に歩いてみると見えてくるものも多いと思います。低山だとなおさら。標高が低いから山としてはつまらない、というわけでもなく、実は歩いてみると道は急だったり、街から遠かったり、その標高が低いが故に見える景色は何を意味するのかとか、低山だからこそ捉えなくてはならないものもあったりします。しかも写真について言えば昔と違って誰でもボタンひとつで綺麗に撮れてしまう時代、写真家にとってはこの撮っているものは何を意味しているのか、撮っている対象物をその対象物としてのあるべき姿として撮れているのかなど、そういう核となるものをしっかりと間違いなく捉えるためにも、じっくりと歩く、これは物理的に歩くというだけでなく、歩くようにものを観察する、考察するという意味でも、大事なことであるわけです。ということで、すみません、ロープウェイ、大人1枚。いや、ここは歩いて登ったことあるから。。。(汗
 というわけで、一気に山上へ。早速目の前の梅林に向かうとぼちぼち見頃となっており、、、ってその前にロープウェイを撮らなくてはいけませんね。今日一番の案件ではありますが、まあこういう写真であれば瞬殺でございます。はい、すぐさま終わらせて梅林を楽しませていただきます。園内の道には若干ながら黄色い蝋梅も残っておりましたがほとんどもう終わり、季節は巡って紅白の梅が園内を飾っておりました。もう三日くらい寝かせたらまあベストといったところでしょうか、それでもぼちぼちいい感じできれいでした。土曜日ということもあってもっと人出があるものかと思っていましたがそういうわけでもなく、梅林の中はぽつぽつと人がいるくらい。蝋梅の時もそうですが、背景に武甲山を入れたり、両神山を入れたりとあまり広くないながらもぼちぼち楽しめます。
 一年を通して山ばかり撮っていると、結構こういう「肩の力を抜いた」写真が大事になってきたりします。時折連載とかで一年を通して写真を並べたりすると、並べたときにどの写真も厳しかったり、山の稜線ばかりだと山の表情の幅が狭まるので、逆に見ててつまらなかったりします。麓から見たり、遠望したりという写真があったほうが多角的に山を捉えることができますので、私も結構こういう撮影を大事にしたりしています。とは言えこういう写真ばかりだと当然山岳写真というよりかは風景写真になりますから、ほどほどにと思ってはおります。そりゃあポカポカの春先に、花を愛でながら、コーラ飲みながら、軽いリュックを背負って、時々グミとかおやつ食べながら、楽な環境でばかり撮っていては幸せを感じすぎてしまい高いお山の上に戻れなくなってしまいそうで。。。
 ということで今回の写真です。今年はずっと暖かかったので梅の有り難さがよくわからなかったですが、まだちょっと寒い時期に目を楽しませてくれる梅は地味ながら大好きです。春が来た、ではなく、もう冬ではないんだな、という感覚がいいですね。梅林は全体的にはいいのですが、手前の株がもうちょっと咲いていてくれてたらよかったかな、と。空を流れる雲もぽこぽこの雲で、気温が上がってきたのがわかります。遠景は奥秩父の山なみで、見る人が見ればすぐわかりますが、右端のところが木賊山、甲武信ヶ岳、三宝山になります。その手前、真下の三角は破風山、この山も標高は低いながらすばらしい景色が楽しめる山です。宝登山で梅が咲き、遠景の甲武信ヶ岳で石楠花が咲くまでにはまだまだ時間がかかりますが、ここから順々にゆっくりと、季節が進んでいくんですね。高い山が緑に覆われる頃には、こちらはもう夏間近といったところでしょうか。どこが一年というサイクルの始点かを決めることはできませんが、梅の花を見ると、夏への道のりが見えるような気が致します。

追憶の旅へ

 はてさてロープウェイおよび山頂付近での撮影を済ませまして、時間もたっぷりとありますからせっかくなのでかな〜り短いですが長瀞アルプス経由で下りました。コースタイムで2時間くらいですが、特に急がずとも1時間くらいで歩けちゃいます。道は案外狭く、尾根の形がよくわかりますので、宝登山から続く山の形をなぞっていくようで地形が頭に入りやすい楽しい道です。樹々の間からチラチラと下の道路も見えているのでなおさら地形が頭の中に3Dで浮かびやすい。野上駅に下りたのがちょうどお昼、そこからは一度荒川へ向かい、車の通りが少ない北桜通りで長瀞駅へと戻って行きました。
 長瀞と言えばライン下りである。そんなことはわかりきっている。しかし大人になってからここには何度か来ているが、ライン下りに乗ったことはない。いや、正しくは「大人になってから」乗ったことがない。子供の頃、乗ったことがある。小学3年の冬だった。それは本当によく覚えていて、まるでジェットコースターのような感覚だったのでとても楽しかった。しかし大人になってからは無理に乗るもんでもないだろうというのと、仕事で来ていることもあって、いつも敬遠していたわけである。この時はどういう風の吹き回しだったのかはわからない。時間に余裕があったのもあったし、春の爽やかな風のせいであったかもしれない。なんとなく子供の頃を思い出し、ライン下りの看板を見つめ、乗ってみようかという気持ちになったのである。まあ、歳のせいかもしれない。今一度、昔と同じことをして、何か昔の自分というものに触れられるかもしれない。瀬を越えるときの一気に流されていくような感覚を、もう一度同じ場所で感じた時、過去の自分をはっきりと頭の中で感じることができるかもしれない。
 過去の自分と今の自分を重ね合う、というのが人間にとって重要な行為かどうかは知らない。未来に思い描く自分へ向かって今の自分を重ねていく行為のほうが大事だと思う人の方が多いかもしれない。しかし私は昔から、変な話だが子供の頃から、過去の自分と重ねるほうが好きである。過ぎ去ってすっかりと目の前から消え去ったはず時間が、まるで目の前に明確な形になって存在するかのような気がすると嬉しいのだが、結局そんなものは幻で、はかなくもまた自分から過ぎ去っていく。しかしなぜか一瞬でも、触れたような、手の中に収まったような感覚。もし本当に捕まえることができたら、きっと嬉しくないのだろう。また消え去っていくから、哀しいから、嬉しい。未来にはそんな感覚はない。もちろん未来へはそれなりにそこへ向かう意思があるから、そこから過去も作り上げられるとは思うけど、この場に留まりつつ「浸る」ことができるのは過去である。そういうわけで舟に乗り込み、ジャケットを身に付け、いざ追憶の旅へ。荒川の瀬が私を待っている。

 ザブンザブン、、、。  ザブンザブン、、、。  ズリ、ズリ。

 ズ、ズリズリ?

 船頭さん「今年は水が少なくてねぇ、流れがなくなってるんですよぉ。」

 全く急流のないライン下り。
 これでは矢切の渡しである。

 新しい思い出ができてしまった。

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